但し書きとして、体の調子が思わしくなく、病院逃れをしている人間が、書くことではないけれど。
飛田新地は大阪西成にある遊郭で、実は、会社の同僚(和歌山県人)に
「ええもの見せてやるけら、こいや!」
の一言で、当時堺の営業所にいたので、仕事が終わると、大和川を越えて、車で飛田新地に連れていってもらった。
路地裏に車で入っていくだが、車一台が通行すると対向車がくると通れなくなるぐらいの狭い道幅を、かなりのスピードで走っていった。
この
飛田新地周辺には遊廓が何十も連なっているのだが、車が店の前を通るたびに、呼び子である、年配のおばさんが、「いい子がおるからよってきいや」と招き猫のごとくおいでおいでの手招きをされる。
玄関のおばさんのよこには、お相手してくれる若い女性が化粧をして和服姿でこちらをみてにっこり微笑む風景がくり返される。
しかし、昭和33年の売春防止法施行がありながら法の穴を潜り抜け現存しているものだと思った。
しかし、この飛田新地
私にとってあまり新鮮な風景というよりむしろ懐かしい部分が沢山あった。
私の故郷
木江も呉市になった
御手洗とならび、かっては、おちょろ船の港として一世を風靡したところだから。
実家は、もともと旅館だったものを買い取ったもので、交易で盛んだった頃の雰囲気はかすかに残っていた。
特に建物は、窓枠や、細格子や2階の手すりなどは、以前の実家もそうであったので、懐かしいにおいがした。
それと、大長出身の父親の里の関係で、御手洗には幼少の頃何度も足を運んだことがあるから今では珍しい木造建築物も目にする機会が多かったためだろう。
座敷から見える海の風景も大切な要素で、これは実際 家に上がらしてもらって、海の景色を眺めさせていただくしか確認の方法がない。数件だけど、学生時代にそういったことを体験できて、今新鮮に思いだすことができる。
外来者だと、デジカメで外観を写真で収めるだけで終わってしまうが、実際の風景の素晴らしさを、誰か、証明できる人がでてこないのだろうか?
これらの貴重な木造建築物は、海が見えて初めて成立します。
朽ち果てる前に、誰かいないのだろうか?
このまま、誰にも認識されることもなく外観のみで終わってしまうのは、淋しい。
立派な家にはいい材木 ケヤキなど柱につかっていたりして装飾も凄いのもあると思う。
現代にあるデジカメがあれば、今どれだけ貴重な資料として価値があるかと思うと残念でならない。
自分の実家もそうだが、木造は船の材料を利用したものが実は多くあった。
また、船大工が、それに携わっていたことも事実として記しておきたい。
特に、鮮明に覚えているのが、いわくつきの家にいくと、必ず隠し部屋があること。
宿場町として栄えた場所には、賭博、売春等にたいする警察の取締りがきついのだろう。
また、暴力団関係の資金となっていたはずで、そういった隠し部屋をは非常時の避難場所として設計にとりいれられているのだろう。
木江は、海をはさんで大三島があり、広島県と愛媛県の県境となっている。
暴力団の勢力争いもあり、警察署もあった。
(当然、船舶の出入りが多いから、国の出先機関もあったけれど)
正直いって、非合法を前提での設計なので、精神衛生にはいいはずもない。
幼少の頃、ある家で隠し部屋をみて、その陰湿さに夢にでてきたことが何度かある。
裏に小さな階段があったり、小部屋があったり、それは、マンガの世界でなく実際にあるとは、小さいながらにショックでした。
しかし、これが島の一面なんだろう。
そう、大望月邸にもありました(^・^)
なぜか寡黙な島の人間
御手洗などは、シーボルトが寄港したことがあるほど有名な風待ち港としても栄えたが、観光政策としておちょろ船も同じぐらいアピールしている。
しかし、木江にはそのようなことはなかった。(それは隣町の遊郭で栄えたメバルもそうだろう。)
理由を考えると、大長のほうが、
若胡子屋など歴史的文化財が現存していること、
逆に木江は大長より歴史が浅く、おちょろ船からのスタートした場所と藩公認のおいらんとではそもそも格式が違う。(結局、おいらんもおちょろに変質してしまったけれど。)
また、おちょろ船の経営者は島外の人ばかりだったそうだ。
ちなみに
おちょろ船にのっていた女性達は、九州や、愛媛県から売られてきた娘さんが多かった。
習い事として、三味線を弾いていた人が多かったですね。
また、性病などに感染していた人もいました。
学校教育でも、郷土史としてとりあげられることはなかったです。
海が外壁となり、逃げようにも逃げれない。
罪深き商人達は、地元には、当然、住めないだろう。
だから、外部の人が多かったのだろうとも推測できる。
また、財の無い 所詮 無産階級のおちょろの話よりも話題性のある赤線のほうが世間うけがいいのだろうか?
商人達にとって、人身売買も、おちょろも投機でしかなく、非合法であることが、前提でだろう。
おちょろ船は木江の町にとって文化というよりは、よそ者の商売というイメージではなかったのか思います。
逆に違う考え方もできます。
運命共同体的な空間で衣食住をするわけで、ある面 こういった今となっては退廃的な部分も楽しみとして島の男は享受していた。
時代が変り、楽しみが罪にかわり、カメレオンのごとく、島独特の恥の文化で、封印されてしまった・・・・・とも推測ができます。
私は、どちらにしても折衷案で両方のケースがあると思います。
瀬戸の歴史は結局は知っている範囲はごく一部であり、生産性の低い場所で生活をするということは、過酷なものだったのだろう。
瀬戸内海の住民の歴史は、時の権力者にとって都合のいいように流れの中で、木の葉のごとく風にたなびいて生きることを強いられてきた存在だったことは、間違いないだろう。
島に住んでいる人が、一般と同じとは思えないし、それは海民として捉えたほうが歴史的に正しいと思う。
私は島を誇りにおもったことは一度もないが、複雑であることは理解できる。
正直、あまりかかわりたくはない。
同族相憐れむような、メリハリのないことだけは、一人の人間として避けたい。
言えることは、明白にしたいだけだ。
島の文化は個人を殺して全体主義で生きる部分があり、そういった部分は、人間として正しいのか問うてみたい。
県道の拡張工事に、道幅を広げるため海岸近くの山を削っていると、人骨がたくさんでてきたとか、当時の治安の悪さ、性風俗の代償は、どこに隠されたのかと思います。
昭和33年の売春防止法施行の総理は、地元選出の
池田 勇人。
彼は、選挙区の島にも知り合いが多かったそうだから、売春防止法には、色々な想いがあったのではないかと手前勝手に思う。
私が生れるずっと前に無くなっていたおちょろ船ですが、その実態は書物とかでしか確認できないが、港の沖合いで、三味線の音がかすかに聞えてきたとしても、不思議ではないと思います。